勉強とは:浮いた言葉が「言葉」としてピカピカする感覚
ちょっとした世間話だったのに、堅い言葉が出てきてしまうことがよくある。
先日子どもの名付けについて、夫と私のどちらが決めたのかと問われ、
「生物的誕生は女の私にしか出来ないから、社会的誕生である名前は夫に」
と答えると、笑われた。
こういう堅い言葉は、ちょっとした世間話の流れに似つかわしくなくて、浮いた感じがするし若干キモい。
昨年、キリスト教画の解説本(「キリスト教とは何か Ⅰ」penbooks)を読んだ。
慣れない絵画の用語とキリスト教的ものの見方に戸惑い、短い文章もスッといかず、一語ずつ拾うように読んだ。
私の頭の中にまだない言葉が、今の私にはカタコトの日本語に感じられる。
どちらも、言葉が話の中から浮いて「言葉」としてピカピカしている。
私はこの感覚が昔から好きだ。
これは勉強というらしい。
ピカピカの新しい言葉に触れて、眺め、噛み締め、取り込み、試し、慣らす。
この営みが勉強なのだという。
ということで、新しい言葉との出会いを噛み締め、試す場としてブログなるものを書いてみるのである。
2018.1.10読了